明石博高
歴彩館に行った時にの明石博高のシンポジウムを聞きました。
明石博高と言えば、舎密局立ち上げぐらいしか知らなかったですが、それ以外でも京都の近代化に貢献したことを知りました。
生家は四条堀川角の薬屋。
七卿落ちのメンバーの一人・錦小路頼徳に人体解体術を、新宮一門に医学、薬草学を学ぶ。錦小路頼徳の子・頼言の門下となり、医道免許取得。
理化学の知識を買われ、槇村正直から請われ京都府に出仕する。京都舎密局を立ち上げる。
伏見鳥羽の戦いで傷ついた戦士の医療に従事。
自宅に明石湯(温泉)、円山吉水に温泉開業。
師の桂文郁は六角獄舎医であったことから、平野国臣と面識あり、明石も平野と懇意にしていた。明石は禁門の変で処刑された平野国臣らの墓所がわからなくなっていたが、西京円町の竹林寺に埋葬されているのを探し出す。
府立医大の前身・療病院の設立に奮闘するも、設立記念碑に名はない。
みやこめっせ博覧会会場の設立に尽力したが、設立記念碑に名はあるが小さい。
月照との関りから、西郷隆盛、梅田雲浜、頼三樹三郎との知遇。錦小路頼言の門下になったことから三条実美、岩倉具視と知遇。幕末の尊王攘夷の強烈な志士たちと交わっていたが、本人は倒幕、尊王に偏ることはなく中道を貫いていたそうです。
京都の街を歩いていても、明石博高のことを書いているものは舎密局跡以外では見たことがないです。発表者からは、おそらく明石は命も名もいらぬ姿勢で、京都のために尽くしたのだと思われるとのこと。
2022年5月21日