京滋探訪

2013年にブログを開設しました。京都の各地に行って見聞きしたものや感じたことを書いています。

真如堂の歴史と信仰

京都市歴史資料館で開催している「真如堂の歴史と信仰」展示品解説を聴きました。

寺地が転々としている。

神楽岡東(錦林車庫バス亭あたり)→[応仁文明の乱]→比叡山黒谷→滋賀県穴太→一条油小路(元真如堂町)→神楽岡東(旧地)→一条油小路(元真如堂町)→寺町今出川→現在地

京都寺社でこれだけ場所が変わっているのは聞いたことがないです。たまたまだそうです。

本尊の阿弥陀如来は、与願印だが、右手は人差し指と薬指を開いた、ネコのシルエットのようであり他では見られないことから、阿弥陀如来立像の初の作品ではないかという説あり。

豪商三井家の菩提寺となり多くの寄進を受け、お十夜も盛大に開催される。

 

(2026年6月13日)

京都国立博物館 北野天神特別展

北野社(天満宮)は菅原道真を祀る社で天満宮の総本社である。

本展は、令和九年(2027)は道真薨去から1125年に「半萬燈祭」が行われるのにあたり、北野社に伝わる古神宝類を中心に、日本各地の天満宮・天神社に伝わる名品の数々を一堂に集めて展示される。

千本釈迦堂(大報恩寺)を研究していることから、今回の展示ではそちらの関係の展示を重点的に見て回った。千本釈迦堂と北野社は少し離れているが、古来は北野社と境界を接しており、また北野社は明治まで神仏習合の社で千本釈迦堂とは少なからず関係があった。

千本釈迦堂に伝わる展示物は以下のとおりである。

①重文・千手観音立像は道真が梅樹で作成したと伝わる平安時代の作品。

②最近国宝に指定された六観音の一つ・十一面観音立像。北野経王堂に伝わる仏師定慶の作品。北野経王堂は足利義満が明徳の乱で滅ぼした山名氏清を始めとした戦没者の霊を弔うために、1401年に建立されたと伝わる堂宇で、そこで定期的に万部経会が行われ、一切経(展示あり)を書写していたと伝わる。堂宇は三十三間堂相当の大きさで、にわかに信じがたいが一ノ鳥居の南側の今出川通上に位置していたと言われている。当初は覚蔵坊という北野社の社僧が管理していたが、応仁文明の乱を契機に万部経会の資金が欠乏し、千本釈迦堂が覚蔵坊職を引き継ぎ、勧進で挙行するようになった。千本釈迦堂は古来単独寺院であったが、江戸初期に真言宗智山派となる。経王堂は大きな堂宇で維持管理が難しく江戸時代には縮小され、明治の廃仏毀釈で廃され、最終的に千本釈迦堂敷地に願成就寺という小さいお堂として残っている。

③経王堂「扁額」

足利義満の筆と伝わる(義持という説もある)。

④傅大士坐像と二童子立像

経王堂で書写した一切経を納めた輪蔵(経蔵)の前に安置していた重文の像。作者は院隆(院派仏師)

特別展でも説明があったが、輪蔵自体は明治期に愛媛県瑞応寺に移築。輪蔵は回転させることで功徳があると言われ、私が訪問した時も法要で回転させていた。写真の傅大士坐像と二童子立像は瑞応寺が調達したもの。

 

今回、特別に北野社に伝わる重文の日本刀・鬼切丸(髭切)と大覚寺に伝わる重文の日本刀・薄緑(膝丸)が並んで展示されており、写真撮影可ということだった。

二振りは兄弟刀で、源氏に伝わる伝説の名刀である。

(2026年5月9日)

藤野家住宅

 

京都御所南の国登録有形文化財・藤野家住宅のオープンデイに行きました。

大正時代に個人の住まいとして建てられた「大塀造」京町家です。

数寄屋風意匠が取り入れられた部屋の説明を聞きました。最近クラファンで五右衛門風呂を更新されたとか、初めて見ました。玄関を兼ねた四畳半の茶室でお茶とお菓子をいただきました。

 

 

 

 

 

(2026年4月12日)

 

東福寺展

京都国立博物館東福寺展を見に行きました。最後に講演会を聴講しました。

東福寺九条道家が、藤原忠平(貞信公)創建の法性寺跡に創建しました。円爾聖一国師)に開基を要請しています。

今回、一部写真OKとのことで撮らせていただきました。

・ 焼失した仏殿旧本尊の巨大な仏手

・ 南明院の本尊:焼失した仏殿の旧本尊の光背にあった化仏の一つ

・ 蓮弁:焼失した仏殿の旧本尊のもの。即宗院に伝わる

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(2023年10月14日)

源氏物語ゆかり7 宇治十帖

源氏物語宇治十帖を廻りました。物語が最初にあって、後の時代の人びとが、そうであろうという場所に駒札を建てています。今でいう聖地巡りです。

宇治十帖は光源氏亡き後の源氏の子孫に話が移ります。また舞台が洛中から宇治に代わります。主人公は薫と匂宮。

薫は表向きは光源氏女三宮の子。実は柏木(内大臣頭中将の長男、玉鬘の異母弟)と女三宮の不義で生まれた子。

匂宮は今上帝と明石中宮の子。

女性は宇治の八の宮(光源氏の弟)の姫君(大君、中君 正妻・北方との子)と浮舟(妾腹)

🌟47帖 橋姫

姫神社に駒札があります。

薫は八の宮のところに仏道修行に通います。八の宮は出家するため薫に姫君の将来を託します。

 

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🌟48帖 椎本(しいがもと) 彼方神社(おちかたじんじや)

匂宮は初瀬詣(長谷寺)の帰りに、宇治の夕霧(源氏の子)の別荘(平等院がモデルと言われている)に立ち寄る。八の宮邸は宇治川対岸にあり、匂宮と八の宮は手紙のやり取りをするが、中君が代筆するようになり匂宮と中君が懇意になり、それに便乗して薫は大君と懇意になりたかった。

八の宮は薫に姫君を託して亡くなったが、その一方で姫君には生前、軽々しく結婚して宇治をはなれないように言っていた。

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🌟49帖 総角(あげまき) 宇治上神社北、さわらびの道から大吉山への登り口

薫は大君に言い寄ったが、薫はあまりに優れた人で自分とは釣り合わないと考えていた。自分(大君)は宇治で一生過ごすことを決めていて、中君こそ委ねたいと伝える。一方、中君は匂宮と結ばれる。そうこうしているうちに、大君は病の床につき、薫の看病むなしく帰らぬ人となる。


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🌟50帖 早蕨 宇治上神社北のさわらびの道沿い

匂宮は中君を二条院に迎える。

匂宮は、薫が二条院を訪れ中君と親しく話しているのを見て、薫を警戒するようになる。

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🌟51帖 宿木 喜撰橋から宇治川上流約300m

夕霧は、娘の六の君を匂宮に嫁がせるが、中君はそのことに衝撃を受ける。中君の相談相手になっていた薫に、宇治に帰りたいと告げられたが諫める。薫はいつしか中君への同情が愛情に変わっていった。中君は薫の気を逸らそうとして、亡き大君に似た異母妹・浮舟のことを伝える。

宇治を訪ねた薫は偶然、初瀬詣の帰途に宇治の邸に立ち寄った浮舟と出会い、浮舟が大君に似ていることに驚く。

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🌟52帖 東屋 宇治橋東詰の東屋観音

浮舟は八の宮と中将の君との間に生まれたが、八の宮には認知されていなかった。

中将の君は受領(国司の長官)・常陸守と再婚したことで、養女になった。受領とはいっても卑しくない身分で家庭も裕福でないことから縁談の話もあったが、養女ということがわかり破談になったことがあった。

そのことを不憫に思う中将の君は、中君のいる二条院に預けることになった。

二条院にいる浮舟を偶然、匂宮が見つけ、さっそく浮舟にアプローチする。薫は浮舟を宇治に連れて帰りかくまった。

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🌟53帖 浮舟 三室戸寺 「浮舟古跡」の碑

薫により宇治に匿われた浮舟ですが、匂宮に居場所を突き止められます。そして薫のいない間に、強引に契りを結びます。このことに気づいた薫は浮舟を責めます。

浮舟は薫と匂宮の板挟みになり自死を決意します。

 

宇治十帖駒札のうち、ここだけ少し離れています。というのも浮舟が匿われていた場所だからです。駒札は三室戸寺の中なので、ここだけは拝観料を払わなければ見れないです。

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🌟54帖 蜻蛉 

京阪宇治駅から三室戸寺に向う途中にある蜻蛉の古跡(京都翔英高等学校南)。

浮舟の姿が見えないので、宇治の山荘は大慌てになる。駆け付けた浮舟母の中将の君は、遺体も見つからないのに世間体から葬儀を行う。

継父の常陸守は、桐壺天皇の孫という継娘の素性が、自分の子たちとは比べものにならないことを初めて知る。常陸宮はせめてものの償いとして、浮舟の弟・小君を薫の下に仕えさせる。f:id:aruipoo:20230925230411j:image
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🌟55帖 手習   宇治橋東詰から三室戸寺へ向う府道(京都宇治線)にあり

宇治川で入水自殺を図った浮舟は昏睡状態で倒れていた。そこにたまたま通りかかった横川の僧都(恵心僧都源信がモデルと言われている)に助けられる。死にぞこなった浮舟は出家を懇願し、僧都は浮舟を出家させた。

病後が不安な明石の中宮(匂宮の母)は、横川の僧都に修法を要望し、御所に呼ばれる。その時、僧都宇治川で倒れていた見知らぬ女性を出家させたことを伝える。

明石の中宮は、それはきっと浮舟に違いないと確信し、その話が薫の耳に入る。薫は浮舟の弟・小君を伴い、横川の僧都のもとを訪ねる。

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🌟56帖 夢浮橋   宇治橋西詰夢浮橋ひろば

薫は横川の僧都のもとを訪ね、小野(高野)で出家した女性が浮舟であると確信した。

浮舟の弟・小君に僧都の口添え文を託し、小君は小野を訪れた。しかし、浮舟は小君にも会わず、人違いとして文も受け取らなかった。

戻ってきた小君から話を状況を聞いた薫は、自分が浮舟を宇治に匿ったように、他の誰かが浮舟を小野に匿っているのではないかと思うのだった。

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宇治十帖モニュメントが朝霧橋東詰にあります。f:id:aruipoo:20230925230700j:image

(2023年9月23日)

 

新徳寺

壬生の新徳寺を拝観しました。

新徳寺は、将軍・徳川家茂上洛に際して、将軍護衛の目的で集められた234名の浪士を率いた清河八郎が、尊王攘夷大義を説いた所です。234名の浪士は、写真の本堂に集められたそうですが、大勢の浪士が入るには少し狭く、一部は本堂の外から聴いたのではないかといわれています。

寺の本尊は准胝観音です。横には家修理の守護で知られる屋葺地蔵が安置されています。

 

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2023年9月11日

奈良国立博物館 聖地南山城展

奈良国立博物館の特別展示南山城展に行きました。

浄瑠璃寺の九体阿弥陀の修理完成記念で催された展覧会です。

京都府の南山城の寺院に伝来した文化財なので、本来なら京都国立博物館が主体となるのですが、南山城は地理的にほぼ奈良県で、奈良の影響が強いため、奈良国立博物館の開催でおかしくないと思います。

展示の目玉としては、浄瑠璃寺の九体阿弥陀のうちの2体、同じく浄瑠璃寺の三重塔本尊薬師如来十二神将、寿宝寺の千手観音、神童寺の白不動です。

寿宝寺の千手観音は本当に手が千本あると言われています。普通は42本に省略されていますが、初めて千本ある手を見ました。

神童寺の白不動は愛嬌のある顔をしています。三井寺円珍が感得した黄不動に基づいているそうです。

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特別展を観たついでに仏像館を観ました。

ここは一部、写真撮影OKで、ありがたいです。

先日拝観した金峯山寺の山門の金剛力士像が展示されていました。山門が修理中のためこちらに移されています。


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奈良国博所蔵の国宝・薬師如来が展示されています。この仏像は熊野若王子神社に伝来したものが明治の廃仏毀釈の時に神社から流出したと考えられています。

この仏像、今年の京産大日本文化研究所特別客員研究員の発表会で来歴調査されていました。9世紀後半の作という仏像が、なぜ12世紀に創建された若王子神社に伝わったのか。造りが東寺の講堂立体曼荼羅の諸像と近似していることから、同じ工房で作成された可能性があるとのこと。調査の結果、確証はないですが、状況的に考えて寺院の本尊ではなく貴人の念持仏であった可能性を示唆されていました。墨書きなどがあればわかるんでしょうが、こういうのはなかなか史料が残ってなくて来歴調査は難しいと思いますが、いい発表でした。

 

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2023年8月19日