京滋探訪

2013年にブログを開設しました。京都の各地に行って見聞きしたものや感じたことを書いています。

千本釈迦堂その四

しばらく投稿していなかったですが、4/22の研究発表会が終わったのてぼちぼち再開しようと思います。

発表会は大変疲れました。持ち時間15分というのは短く、資料文献からわかった出来事を伝えただけで、まだまだ言いたいことあったのでブログに書いておこうと思います。

①雍州府志には「罪を犯したことで追放された」とありましたが、本光国師日記にはその罪状が載っていました。
「本堂を修理しようと目論んでいたが、資金繰りが苦しかったので、検地に来た役人に所領を増やしてほしいと言い、その旨を上に伝えてほしいと言ったところ、にわかに捕られられた」とあります。
このことについて天海は崇伝に対して罰則が厳しすぎるのではないかと訴えています。
私も厳しすぎると思いました。
しかし、江戸幕府としては寺院の勢力を如何にして削ぐかに陳腐していたので、何かつけこむ機会を伺っていたと思います。また豊臣恩顧ということも関係していたと思います。

②閻魔堂の件は、本光国師日記には訴えた事実だけが載っていて、その顛末がどうなったか気になっていましたが、江戸時代の寺院本末帳を見たところやっぱり乗っ取られたことがわかりました。理不尽なようですがこの時代は似たようなことがあったようです。

③崇伝と天海の対立についてはお話しませんでしたが、元和2年に家康が亡くなったことで崇伝と天海で家康の神号問題が起こりますが、今回のテーマもちょうどそのころのことであり、やはり、崇伝と天海の確執も一つの要因であったかと考えています。