鳥羽作り道とは九条通りの羅城門址石碑がある公園から南に伸びている道です。海から平安京までの物資の運搬は、舟で淀川、宇治川、鴨川と登り、鳥羽からは作り道の陸路の行程だったと言われています。
平安時代から今でもその位置が変わらずあるのが東寺で、鳥羽作り道を上りぶち当たるのが羅城門(石碑)です。位置的にかなり信憑性が高いと思います。2枚目の写真は鳥羽作り道の入り口です。
羅城門の隣に矢取地蔵があります。位置的には作り道の真正面になります。
縁起の説明板によると、空海と守敏の雨乞い合戦で空海が勝利した。守敏は恨みに思い、空海に矢を射ったが地蔵が身代わりになったとのことです。
ちなみに、守敏は西寺の住持です。西寺が廃れ、跡形もなくなったのはこの事件があったからです。この手のものはどこまで本当の話かわかりません。
鳥羽作り道を下がり、久世橋通りを過ぎてしばらく行くと、六地蔵巡りの一つで鳥羽地蔵を祀る浄禅寺があります。
文覚上人の開基と伝わりますが、以下の恋塚(首塚)の伝承があります。
「遠藤盛遠こと文覚は渡辺渡の妻・袈裟御前に横恋慕し、渡辺渡を殺すのを誤って袈裟御前を殺してしまった。それで出家し文覚上人になった。」
袈裟御前と文覚の事件は「源平盛衰記」にあるそうですが、また「愚管抄」には文覚は乱暴者とあり同時代の人にはあまり評判が良くなかったようです。文覚上人と言えば、肖像画が残っていたり、神護寺中興の祖で「四十五か条起請文」(国宝)を後白河法皇に上呈したことなどネガティブなイメージはないですが、時代時代によって人物の評価が違うようです。
下の写真のガラスケースに入っている石碑は恋塚(首塚)の伝承が刻まれているそうです。
鳥羽作り道の浄禅寺から名神高速道路をくぐったところに、恋塚寺があります。ここも浄禅寺と同じ伝承が残っています。八ッ橋の本家と元祖のような話ですが、今となってはどちらが本物かわかりません。都名所図会には浄禅寺は恋塚ではなく鯉塚とあるそうですが。
ここから、国道一号線を横断し、城南宮に向かいます。ここは平安京の南の守護神として創建され、方除けのご利益で知られています。また、白河上皇が当地に鳥羽殿を創建した時の鎮守となりました。近くには鳥羽殿の遺跡が多く残っています。
この辺りは今でこそ平野部が広がっていますが、平安時代には巨椋池水系として天然の湖沼が広がっており風光明媚なところだったようです。
ここから名神高速道路にほど近い京都南インターのファッションホテル街の一画に宮内省の後宮塚参考地があります。このあたりを探訪していると何か間違えられそうです。いそいで帰ることにします。
(2010年5月1日)