御所東(新島会館・岩倉具視講演会)
本来、御所東という地名はないようですが、京都御苑外の東側を探訪します。
今日は自家用車で御所東に行き、近くの駐車場に止めます。実は、今日の目的は新島会館で催される岩倉具視の講演会の聴講ですが、早めに行き近くを巡ることにします。
駐車場は梨木神社の横にあります。梨木神社は先述したように、公家の三条家邸宅の東に創建されていて、祭神は三条実万・実美父子です。境内には名水・染井があり、飲めるみたいです。探訪していると時々、汲んでおられる方を見かけますが、私はこういうものは沸かしても怖いので飲まないようにしています。
裏に清浄華院墓地がありますが、墓参者でない限りはこんなところまで来ません。皇族のお墓があり、また、表の石碑にもあるように山科言継の墓所でもあります。おどろいたのが、愛猫の墓石があり、いくらなんでも同じ墓地に皇族からペットまでというのはどうかと思います。
ここから、一本東の通りの中筋通りを上がると大蔵流狂言の茂山千五郎家の屋敷があります。茂山家は井伊直弼に召し抱えられ、名を上げ、明治以降東京に移った和泉流に変わり、京都の狂言界を主導することになりました。
そこから数軒上がった東北角の家が中原中也の下宿跡です。ウイキペデアでは以下のように説明されています。
さて、そろそろ新島会館に行くことにします。
① 講師は京都市歴史資料館の先生。
② 岩倉家は中級の公家だったが、鷹司家の歌道の門人になったことから有力公卿の人脈を形成した。
③ 具視は岩倉村に所領があった関係で岩倉に隠棲していき左大臣に上り詰める。
④ 岩倉具視の出身は下級公家であったので、幼少のころはほとんど記録がない。
⑤ 蟄居していた時の記録もほとんどないが、ただ一点のみ現存している。その事実と中身の報告が今回の目玉。
⑥ 西川珍儀という、蟄居時代の給仕の記録が現存している。岩倉具視の記録ではないが、「西川珍儀一代図会」に具視の記述が多くある。
⑧ 岩倉家は明治に東京に行ったが、イタリア文学研究者で宗家の具忠氏は京都に戻ってきている。
(2013年10月5日)