京滋探訪

2013年にブログを開設しました。京都の各地に行って見聞きしたものや感じたことを書いています。

御所東(新島会館・岩倉具視講演会)

本来、御所東という地名はないようですが、京都御苑外の東側を探訪します。
今日は自家用車で御所東に行き、近くの駐車場に止めます。実は、今日の目的は新島会館で催される岩倉具視の講演会の聴講ですが、早めに行き近くを巡ることにします。
御所東は寺町通にあたります。今は京都御苑の敷地内ですが、寺町通の西側は公家屋敷がありました。秀吉の都市改造で寺院が集められたので主に通りの東側に寺院が集められました。
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駐車場は梨木神社の横にあります。梨木神社は先述したように、公家の三条家邸宅の東に創建されていて、祭神は三条実万・実美父子です。境内には名水・染井があり、飲めるみたいです。探訪していると時々、汲んでおられる方を見かけますが、私はこういうものは沸かしても怖いので飲まないようにしています。
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梨木神社から寺町通の向かい側に蘆山寺があります。ここは角田文衞先生の説より紫式部の邸宅跡と言われています。この付近が藤原道長の法成寺跡で、道長娘の彰子、彰子に仕えていた式部という関係から、なるほどと思います。
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蘆山寺は良源が創建。天正年間に寺町に移転しました。
この、良源という人は、比叡山天台座主でした。正月三日に遷化したので元三大師と呼ばれます。加持祈祷を行う霊能力者で、鬼を退散させた故事から節分祭に悪霊退散を祈願します。また、良源はおみくじの元祖と言われ、境内でもおみくじがあります。 
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蘆山寺の北に清浄華院があります。こちらは円仁が創建しましたが、後に法然が浄土宗に改宗しました。
裏に清浄華院墓地がありますが、墓参者でない限りはこんなところまで来ません。皇族のお墓があり、また、表の石碑にもあるように山科言継の墓所でもあります。おどろいたのが、愛猫の墓石があり、いくらなんでも同じ墓地に皇族からペットまでというのはどうかと思います。
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ここから、一本東の通りの中筋通りを上がると大蔵流狂言茂山千五郎家の屋敷があります。茂山家井伊直弼に召し抱えられ、名を上げ、明治以降東京に移った和泉流に変わり、京都の狂言界を主導することになりました。
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そこから数軒上がった東北角の家が中原中也の下宿跡です。ウイキペデアでは以下のように説明されています。
1920年(大正9年)、県立山口中学入学(元山口高校)。1923年(大正12年)、落第し立命館中学に転入。劇団表現座の女優で広島出身の長谷川康子と知り合い、同棲する。」
同棲していた下宿がこの地でした。
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さて、そろそろ新島会館に行くことにします。
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以下、「岩倉具視とその時代」講演会の概要です。(著作権、個人のプライバシーがあり詳細は控えます)
 
    講師は京都市歴史資料館の先生。
   岩倉家は中級の公家だったが、鷹司家の歌道の門人になったことから有力公卿の人脈を形成した。
③  具視は岩倉村に所領があった関係で岩倉に隠棲していき左大臣に上り詰める。
   岩倉具視の出身は下級公家であったので、幼少のころはほとんど記録がない。
  蟄居していた時の記録もほとんどないが、ただ一点のみ現存している。その事実と中身の報告が今回の目玉。
   西川珍儀という、蟄居時代の給仕の記録が現存している。岩倉具視の記録ではないが、「西川珍儀一代図会」に具視の記述が多くある。
⑦ 子孫の方は京都市内におられる。向こうから名乗り出てこられた。具視の遺物が京都市に寄贈されたことと関係があるかもしれない。先生が西川珍儀の子孫の方から貴重な話を聞いた。本邦初公開。
⑧  岩倉家は明治に東京に行ったが、イタリア文学研究者で宗家の具忠氏は京都に戻ってきている。
 
講演会の後で、隣の新島襄邸宅を見学しました。(新島襄・八重と岩倉具視の関係はあまりないようです。)
 
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(2013年10月5日)