京滋探訪

2013年にブログを開設しました。京都の各地に行って見聞きしたものや感じたことを書いています。

正面町

今回は豊国神社から正面町を探訪します。
その前に豊国神社の隣の京都国立博物館で「宸翰天皇の書」特別展が開催中だったので入ります。
俗に、「琴棋書画」と言われように、書はお公家さんのたしなみの一つでした。おおよそ天皇は書の名人です。
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下の写真は上から神護寺・国宝:文覚四十箇条起請文、京国博・重文:伏見天皇宸翰願文、京国博・重文:後醍醐天皇宸翰消息です。
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その他には小野道風・屏風土代、藤原行成・白氏詩巻、本能寺切れ、空海灌頂歴名嵯峨天皇宸翰・光定戒牒など有名な書がせいぞろいしていました。
書をたしなんでいる方には垂涎の的ですが、思ったよりも入場者は少ないようです。
私は書はわかりませんが、超一流のものは気品や趣があり、見ておいて損はないと思います。
 
国立博物館を出て、すぐ右折し大和大路通りを行きます。右手(東側)に豊国神社の鳥居があり、ここから西に延びているのが正面町通りです。
その前に、豊国神社を参詣します。ここは、国宝の山門(鳥居の奥)で有名です。聚楽第の遺構と伝わります。それと、豊臣氏滅亡の滅亡のきっかけとなった、「国家安康君臣豊楽」と刻まれた梵鐘が残っています。
俗に、「国家安康君臣豊楽」は豊臣が栄え、「家康」の家と康を分断したといちゃもんをつけたと言われていますが、豊臣家と徳川家がともに栄えるようにという考えから、豊臣、家康の字をわざと使ったというのが定説です。
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豊国神社から正面通りを西進し、賀茂川にかかる正面橋を渡ります。
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渡ったところに任天堂の旧社屋があります。レトロでおしゃれな建物です。
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任天堂の斜め向かいに、ちょうど橋を渡りきったあたりに釣鐘が無造作に置かれていました。見上げると京仏具店の前です。いかにも京都という感じですが、どうして公道に鐘が置かれているんでしょう?。
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さらに西に行きます。ところで、正面町通りは秀吉が豊国神社の敷地に有った東山大仏から西本願寺に至る通りとして整備されました。その後、正面町通りを分断するように、家康が教如東本願寺の寺領を与え、さらに家光が宣如に東本願寺の東にに渉成園が与えられました。
したがって、正面町通りを歩いていくとまず渉成園に突き当たります。周囲にカラタチが植樹されていたことから枳殻邸とも呼ばれています。
作庭は石川丈山が協力しました。庭園は嵯峨天皇皇子源融が奥州の塩釜の風景を模したと伝わる河原院跡と伝わります。実際は河原院は五条河原町あたりにあったと言われているので渉成園とは少し離れています。本当のところは誰もわかりません。
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庭園から外を見るとビルが見えます。都会の中にありながら喧騒を離れ、オアシスのようです。いいところです。
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順番で言うと次は東本願寺ですが御影堂、本堂が補修中で別の機会にします。さらに西進し西本願寺を目指します。
西本願寺に到着する前に豪奢な建物の伝道院があります。ここはもと真宗門信徒の生命保険会社でした。設計は祇園閣の設計でも知られている伊藤忠太です。個性の強い建物ですが、町に溶け込んでいます。
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やっと、西本願寺に到着しました(ここで正面町通りは終わり)。
西本願寺の南側に国宝の唐門があり、伏見城の遺構と伝わります。一日中日が暮れるまで見てられるから日暮門とも言いますが、それにしても派手です。個人的にはここまでしなくてもいいと思いますが・・・。
 
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たまたま、滴翠園が拝観出来る期間でしたがカメラ不可とのことでした。京の四閣の一つ、飛雲閣があり、趣のある建物です。秀吉の聚楽第の遺構と伝わります。
また庭園や書院は貴重で、いちど拝観したいですが通常非公開です。
 
西本願寺向かいの亀屋陸奥で松風を買って帰りました。あまり食べたことのない食感で、上品な味です。西本願寺ご用達のお菓子で、茶道のお菓子としても出されるそうです。前に、お葬式の粗供養としていただいたこともあります。
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