京滋探訪

2013年にブログを開設しました。京都の各地に行って見聞きしたものや感じたことを書いています。

伏見桃山

今回は伏見桃山を探訪しました。自宅の最寄りの地下鉄椥辻駅から六地蔵駅まで行き、JR奈良線に乗り換え藤森駅で降ります。
このあたりを深草大亀谷といいます。
 
イメージ 1
イメージ 2
イメージ 3
 
東に行ったところに古御香宮社があります。現在、御香宮はここから南の国道24号線沿いにありますが、秀吉が伏見城を築城する時に、御香宮をこの大亀谷に移築して伏見城の鎮守としました。
その後、家康によって元あった現在地に戻されましたが、神社があった大亀谷の旧地が古御香宮社として残っています。
説明板によると、秀吉がここに神社を祀ったのは、隣接する桓武天皇陵墓参考地を保護する必要性があったと伝わります。また、伏見鳥羽の戦いの時には、一時御香宮の神霊がこちらに遷御されたそうです。
イメージ 4
イメージ 5
イメージ 6
イメージ 7
御香宮のすぐ南に仏国寺があります。黄檗宗寺院です。説明板によると万福寺五世高泉和尚(中国人)がこの地にあった永光寺を復興し仏国寺としました。伏見奉行で、当地で亡くなった小堀遠州墓所としても知られています。お墓はよう見つけませんでした。ちなみに、中国姓の墓が多数ありました。
 
イメージ 8
イメージ 9
仏国寺のはす向かいに八科峠石道標があります。以下、伏見観光連携協議会の資料です。
[八科峠には石碑があり、その脇には車石の碑があります。車石は荷車が通りやすいように敷いた石のレールで、昔は牛車などが上り下りしました。伏見城築城以後、京都から宇治を経由して奈良を結ぶ街道として開け、旅人で賑わいました。八科峠の「八」は多い、「科」は階段状の意味で、急な険しい山道であることからこう呼ばれていました。]
ただし、ここに保存されている車石は逢坂山のもののようです。以前、大津市歴史資料館で車石の特別展を観ました。それによると、当時は各地に車石があり、特に逢坂山から日ノ岡越えの三条通りは有名だったようで、琵琶湖疏水が出来るまで牛車が荷の運搬手段として利用されていました。ちなみに、車石は現三条通りにも遺跡として保存されています。実際に車石が埋め込まれていたのは現三条通りに平行して走っている旧道です。 
イメージ 10
イメージ 11
 
八科峠の西に伏見北堀公園があります。この公園はすり鉢状なっていますが、伏見城の堀跡です。
 
イメージ 12
イメージ 13
北堀公園の北側で藤城小学校の向かいに清涼院があります。ここは家康の側室お亀の方が住まわせ、ここで尾張家の祖・徳川義直を産みました。
以前の「八幡」のブログで書いたように、お亀の方とは八幡・正法寺の大壇越志水家の娘・亀女のことです。思わぬところで繋がりました。
義直は幼名を五郎太丸と言い、そこからこのあたりの町名を五郎太町と名づけられています。 
 
イメージ 14
イメージ 15
徳川家康関ヶ原の戦いから江戸幕府を開くまでの間は伏見城におりました。そのため、このあたりは秀吉の時代から徳川幕府初期までは武家屋敷が立ち並び、その関係で今でもゆかりの地名が多く残っています。
清涼院の西でJR奈良線沿いに海宝寺があります。ここは普茶料理伊藤若冲が最後に絵を描いた筆投げの間として知られていますが、伊達正宗の屋敷跡でもあります。このあたりの地名を正宗と言います。
ただ、ここに武家屋敷があったのは安土桃山時代でした。それから四百年以上経っています。当時から武将の名前が付けられていたのでしょうか。町おこしでしょうか。機会があれば調べてみたいと思います。
 
イメージ 16
イメージ 17
イメージ 18
ここから天皇陵に向かいます。伏見桃山といえば明治天皇陵を思い浮かべますが、はるか以前から桓武天皇柏原陵がありました。伏見城の西側になります。
イメージ 19
イメージ 20
 
明治天皇陵、昭憲皇太后陵は広大です。歩くのも大変でした。ところで、明治天皇陵はどうして伏見城址なんでしょうか。明治天皇の遺言だそうですが。
そもそも、伏見城はどうしてここだったんでしょうか。桓武帝の陵墓があったからでしょうか。
秀吉の遺構については時々思うことがあります。秀吉創建の聚楽第は平安宮跡で京都御所の西でした。豊国神社は葬送の地・阿弥陀ヶ峰のふもとで後白河院法住寺跡にあります。
昔の人は血統とか、土地の由来についてこだわりがあったようです。
イメージ 21
イメージ 22
 天皇陵を降りて行った桃山御陵参道に乃木神社があります。明治天皇崩御に際して殉死した陸軍大将乃木希典と静子夫人(旧姓・湯地)が祀られています。説明板によると創建したのは殉死の報を聞き、感極まった京阪電車社長の村野山人です。明治天皇が葬られる予定の御陵の近くに神社が建立されました。
イメージ 23
 
イメージ 24
 領内に長府乃木旧邸が再現されていました。その説明板によると乃木希典大将の先祖は宇多天皇第八皇子敦実親王の後裔佐佐木四郎高綱公です。高綱は宇治川の合戦で義経の軍を勝利に導き功名手柄を立てた方です。
乃木大将の父・乃木希次は幕末の藩政改革案を上申したが、上級藩士の機嫌を損ね、蟄居した長府(山口県)の足軽の家が再現されています。
幼少の乃木希典は気弱温順な優しい少年でしたが、不甲斐なく思った両親は家庭教育で修練させたようです。
戊辰戦争に従軍、日清戦争では旅団長、その後に台湾総督、日露戦争では第三司令官、学習院院長などを歴任されました。 
イメージ 25
 宝物館には当時の貴重な史料が残されています。明治、大正天皇とその皇太后および乃木希典とその夫人の肖像を始めて見ました。 
イメージ 26
 
ここからJR奈良線桃山駅に向かうと、大光明寺陵があります。この御陵と相国寺塔頭光明寺は関係があるとかでインターネットで調べてみました。
もとは藤原道長・孫の橘俊綱が創建した伏見山荘がありました。それが後白河上皇の伏見殿に継承され、その後、持明院統後伏見天皇、子の崇光天皇光明天皇に受け継がれていきました。
伏見殿の傍らに後伏見天皇の菩提を弔うため皇后の広義門院が一堂を建立しました。それが大光明寺です。広義門院光明天皇崇光天皇の生母でもあります。崇光天皇の第一皇子・栄仁親王伏見宮家の祖となりこのあたりを所領としました。
その後、秀吉により相国寺山内に移築されました。(大光明寺は拝観したことがありますが別の機会にブログで報告します。)
光明寺陵として造成されたのは意外に新しく明治時代だそうです。 というのも崇光天皇光明天皇の遺骨が大光明寺に納められたとの古文書によります。
 
イメージ 27
国道24号線を横断したところに御香宮があります。以下、説明板からの解説です。
「境内に清泉が涌いたことから清和天皇から御香宮の名を賜りました。近くの伏見宮家の庇護を受け産土神となりました。その後、伏見城の鎮守にするのに秀吉により大亀谷に移築され、家康により現在地に戻されたりと転々としました。
(現在の本殿は家康の寄進だそうですが、改修されたようで拝殿、本殿の唐破風屋根がきれいに化粧されています。)
徳川御三家の藩祖は伏見で生誕し、御香宮産土神とあがめ、江戸時代にますます社名が高まりました。幕末の伏見鳥羽の戦いでは薩摩藩の陣営となり、大手筋をへだてた伏見奉行所に陣取った幕府軍と戦いました。
イメージ 28
イメージ 29
今回は結構歩きました。車で通ったりしているのでわかっているつもりでしたが、伏見桃山陵が想像以上に広く疲れました。JR奈良線桃山駅から帰途に着きました。
 
(2014年1月5日)