京滋探訪

2013年にブログを開設しました。京都の各地に行って見聞きしたものや感じたことを書いています。

番外編2/4(平泉2)

番外編1-1(平泉1)の続きです。
観自在王院跡に行きました。ここも草原と池だけなのでイメージがたよりです。以下、説明板の解説です。
観自在王院吾妻鏡に載っています。創建は奥州藤原二代基衡妻(前九年の役で滅亡した安倍宗任の娘)。
堂内の四壁に京の都の霊地名所が描かれていた。霊地名所とは、八幡の御放生会・加茂の祭・鞍馬・醍醐の桜会・宇治の平等院・嵯峨・清水などの七か所の情景であった。京文化に憧憬した思慕の心をみることができます。 
 
 
イメージ 1
イメージ 2
毛越寺に行きます。
ここも円仁が開基だそうです。しかも、中尊寺と同じ年(850)です・・・・・。どうもおかしいです。中尊寺毛越寺は1キロしか離れていないのに、円仁がこんなに近くに寺院を創建するんでしょうか。気になったので、ネットで調べてみました。中尊寺は円仁創建をうらずけるような資料が出てこないそうです。奥州藤原氏が創建したというのが真実らしいとあります。
ここも、かなり手が入れられているそうで、特に、徳川時代には伊達家の所領で手厚い保護を受けています。そうでなければ残りません。
 
イメージ 3
 ここは浄土庭園が再現されています。広大な池に出島石組、州浜があり鷁首が浮かんでいました。京都では大覚寺の大沢池のような雰囲気です。池の周囲は芝生がきれいで、洗練されていました。
 
イメージ 6
 イメージ 14
 
イメージ 15
 
 開山堂は円仁をお祀りする堂です。変わった造りのお堂です。コテージのようです。 
イメージ 4
 池の遣水を再現し曲水の宴が催されています。平安時代には宮中の公式行事として催されていたようですが、毛越寺は昭和61年の欧州藤原三代の秀衡公八百年遠忌を記念して始められたそうです。京都では、城南宮、上賀茂神社が有名ですが、地方にもありますが、現代の宴は全て、昭和、平成に再現されたものです。
残念なことに、宴は一昨日だったそうです。平泉に行ってから気づきました。 
イメージ 5
 
イメージ 16
 毛越寺からバスに乗り達谷窟毘沙門堂に向かいました。縁起によると、悪路王・赤頭・高丸などの蝦夷がこの窟を城塞として悪事を働いていたので国府も手を焼き、坂上田村麻呂が征伐したというものです。この平安時代の田村麻呂の話は清水寺アテルイ(=悪路王)・モレの蝦夷の石碑にある話とリンクしています。
しかし、この地はもとは蝦夷が支配していた土地でしたので、平安京桓武天皇が平定しましたが、蝦夷にとっては侵略されたとも言えます。いずれにしても蝦夷が悪者になっています。 
 
イメージ 7
 
イメージ 9
 本堂は清水寺の懸造りを参考にして毘沙門天を祀りました。
実際は奥州藤原氏が建立し、江戸時代には伊達氏により保護されています。本当にうしろの山肌の岩をくりぬき須弥壇が安置されています。興味深い構造です。 
イメージ 8
 懸造り本堂のよこの山肌に磨崖仏(顔面大仏)があります。縁起によると前九年後三年の役で亡くなった敵味方の諸霊を供養するため陸奥源義家公が馬上より弓張をもって彫り付けたと伝わります。
 
イメージ 10
 達谷窟からさらにバスに乗り厳美渓に行きました。ここは歴史とはあまり関係ないですが、松島と並び称される景勝地です。
イメージ 11
 平泉に戻り、ホテルの近くの金鶏山に登りました。金鶏山藤原秀衡が黄金の鶏を造り、富士山を形どり作った人口の山と伝わります。 
イメージ 12
 山のふもとの登山口に源義経公妻子の墓があります。
高館で藤原泰衡に襲われた義経が妻子を殺害し、自害し最期を遂げました。後に、妻子の墓はこの地に改葬されました。ちなみに、この妻は有名な静御前ではなく、北の方(正妻 河越重頼女)です。
 
イメージ 13
 
 (2014年5月27日)