京滋探訪

2013年にブログを開設しました。京都の各地に行って見聞きしたものや感じたことを書いています。

番外編1/4(平泉1)

会社の長期特別休暇を利用して平泉に行ってきました。
本来、京滋探訪とは関係ないですが、京都との比較もしたいと思います。
 
平泉が世界文化遺産に登録されたのは平安時代末期に奥州藤原氏が築いた中尊寺毛越寺をはじめとする仏教寺院と浄土庭園など、この世に浄土を体現させた黄金文化の遺跡群が評価されたことによります。
奥州藤原氏といっても祖先は中臣鎌足です。藤原北家の本家筋が京都に残り、代々摂政関白を世襲しますが、分家になると国司として地方に下り、その子孫が土着の民になります。奥州藤原氏後三年の役に勝利した初代・清衡が平泉に仏国土を建設したことに始まります。仏国土とは仏の教えによる平和な理想社会のことですが、戦乱に明け暮れたことによって平和な世の中を切望していたことがわかります。二代・基衡、三代・秀衡、四代・泰衡と続きますが、四代の時に源頼朝によって滅ぼされます。短い間でも栄華を極めたのものはほんの一握りです。
 
正直いって田舎でしたが、ひなびた感じがして悪いことはなかったです。
おそらく定番となっていると思われるコースで巡りました。そんなに広くないので自転車で十分です。
 
 
 
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駅前のレンタサイクル店で食事処を聞きました。「はっとう」というものがあるそうです。いわゆる「すいとん」ですが、駅前の食堂を紹介いただきました。こちらのほうは小麦粉や餅類が名物だそうです。
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駅前から自転車で行きます。走っていて気になったのが、下の写真のように家々に明かりでしょうか、風情のある雰囲気を醸し出しています。
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すぐに無量光院跡に到着しました。説明板によると、ここは三代・秀衡が宇治平等院を模して建立されたそうです。無量光とは阿弥陀如来のことですが、調査の結果、阿弥陀堂鳳凰堂よりも規模が大きいかったことが知られています。ただ、現存していないのが残念です。見渡す限りの草原の一部に大きな水たまりがあります。宇治の鳳凰堂を思い出しながら、州浜をイメージすることにします・・・・。
 
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 次は柳之御所遺跡です。ここは、清衡、基衡の屋敷跡と伝わります。北上川のほとりになります。横に柳之御所資料館があります。ここは2013年に柳之御所跡で発見された鳥獣人物戯画ではないかと言われているカエルの絵の木簡が常設展示されています。残念なことに出払っていました。小学校で展示されているそうですが・・・・行けません。
 
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 次は高館義経堂です。北上川のほとりの小高い山の上にあります。源義経は頼朝と不仲になり、京都から平泉に逃れ、四代・泰衡にかくまってもらいます。しかし、泰衡は鎌倉の圧力に屈し、義経は自刃します。結局、泰衡も頼朝に滅ぼされます。
山の上に義経の供養塔や松尾芭蕉の「夏草や兵どもの夢の跡」の石碑が建っています。この句はここで詠まれたそうです。「兵ども」とは義経奥州藤原氏を指していますが、山の上から北上川とまわりの草原以外何もない情景を見るにつけ、何となくものがなしい感じがしましす。ここに来るとその句の意味がよく分かります。
芭蕉西行の追っかけをしていたそうですが、西行奥州藤原氏は遠い親戚という関係から、西行は平泉を旅していて、芭蕉もそれにならったと言われています。
 
 
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 ようやく、中尊寺まで来ました。ここは、平泉の中心です。初代・清衡から四半世紀かけて造営されました。説明板によると、比叡山延暦寺の円仁の創建だそうで、天台宗東北大本山でもあります。本堂には延暦寺から分灯された不滅の法灯があるそうです。
広い境内ですので結構時間がかかりました。 
 
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 月見坂を上って行くと、西行の歌碑がありました。
「ききもせず束稲やまのさくら花 よし野のほかにかかるべしとは」(ここから見える束稲山の桜は奈良の吉野の桜以外にこんなすごいものは聞いたことがない)という情景を詠んでいます。
西行は、鳥羽院護衛の北面の武士でしたが、眉唾ですが、鳥羽院中宮への恋心が忘れられず出家したと言われています。西行は平泉に二回来ています。一回目の訪問は出家後に私淑していた能因法師藤原実方が訪ねた東国を巡る修行でした。二回目の訪問は平重衡によって焼き討ちに会った東大寺の再建で、いわゆる寄付を募りに行きました。東大寺勧進進職といえば重源が有名ですが、その後栄西に託されたりとかします。西行も一枚かんでいたということで、違う分野、宗派の人物の交流とかはあまり表に出てきませんが、このあたりも研究すればおもしろいかもしれません。
 
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良源の角大師の護符を見つけました。こんなところでと以外に思いましたが、天台宗なので当然かもしれません。
 
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 やっと、金色堂まで来ました。ここは写真一切禁止です。コンクリート製の覆い堂の中に金色堂がある二重構造です。須弥壇には阿弥陀如来勢至菩薩観音菩薩地蔵菩薩、四天王があります。ここは藤原四代の遺体(ミイラ)墓所でもあります。同じような須弥壇が3つあり、それぞれ納棺されていて、四代目は首級のみです。
考えたら少し気持ち悪い?
西方極楽浄土への往生を願い棺が納められたのでしょう。 
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 近くに旧覆堂というのが残っています。もとはここに金色堂があったそうです。芭蕉は旧覆堂のここで拝観して「五月雨の降り残してや光堂」という句を残しました。
金色堂は宇治白川の金色院を模して建立されたと言われていますが、覆堂の存在は知りませんでした。たしかにこんな覆いがないと残るわけないです。それと、奥州藤原氏が滅亡してからの時代時代の人々による補修の賜物です。先人の苦労がよくわかります。
金色堂の東に讃衡蔵という宝物館があります。最近よくある形式ですが、塔頭の本尊などの文化財を集めて一堂に管理できますし、そこで法要もします。
入ると、丈六の阿弥陀1体、薬師2体の坐像が安置されていて圧倒されます。
国宝・紺紙金銀泥一切経が展示されていました。平家納経と双璧をなすと言われていますが、当時は法華経を写経したいわゆる装飾経を奉納することで極楽往生を願いました。武士という殺生を生業としているだけによけいに来世のことが心配だったようです。
1本ずつ両腕を上げ結んでいる清水寺式千手観音像も安置されていました。どうしてこんなところにと思いますが、仏像、経典にはじまり螺鈿、截金、漆工など全て京都の職人もしくは指導を受けた人の手によります。京都にある文化財と似ていて当然です。 
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(2014年5月26日)