番外編1/4(平泉1)
会社の長期特別休暇を利用して平泉に行ってきました。
本来、京滋探訪とは関係ないですが、京都との比較もしたいと思います。
奥州藤原氏といっても祖先は中臣鎌足です。藤原北家の本家筋が京都に残り、代々摂政関白を世襲しますが、分家になると国司として地方に下り、その子孫が土着の民になります。奥州藤原氏は後三年の役に勝利した初代・清衡が平泉に仏国土を建設したことに始まります。仏国土とは仏の教えによる平和な理想社会のことですが、戦乱に明け暮れたことによって平和な世の中を切望していたことがわかります。二代・基衡、三代・秀衡、四代・泰衡と続きますが、四代の時に源頼朝によって滅ぼされます。短い間でも栄華を極めたのものはほんの一握りです。
正直いって田舎でしたが、ひなびた感じがして悪いことはなかったです。
おそらく定番となっていると思われるコースで巡りました。そんなに広くないので自転車で十分です。
駅前のレンタサイクル店で食事処を聞きました。「はっとう」というものがあるそうです。いわゆる「すいとん」ですが、駅前の食堂を紹介いただきました。こちらのほうは小麦粉や餅類が名物だそうです。
次は柳之御所遺跡です。ここは、清衡、基衡の屋敷跡と伝わります。北上川のほとりになります。横に柳之御所資料館があります。ここは2013年に柳之御所跡で発見された鳥獣人物戯画ではないかと言われているカエルの絵の木簡が常設展示されています。残念なことに出払っていました。小学校で展示されているそうですが・・・・行けません。
次は高館義経堂です。北上川のほとりの小高い山の上にあります。源義経は頼朝と不仲になり、京都から平泉に逃れ、四代・泰衡にかくまってもらいます。しかし、泰衡は鎌倉の圧力に屈し、義経は自刃します。結局、泰衡も頼朝に滅ぼされます。
山の上に義経の供養塔や松尾芭蕉の「夏草や兵どもの夢の跡」の石碑が建っています。この句はここで詠まれたそうです。「兵ども」とは義経や奥州藤原氏を指していますが、山の上から北上川とまわりの草原以外何もない情景を見るにつけ、何となくものがなしい感じがしましす。ここに来るとその句の意味がよく分かります。
ようやく、中尊寺まで来ました。ここは、平泉の中心です。初代・清衡から四半世紀かけて造営されました。説明板によると、比叡山延暦寺の円仁の創建だそうで、天台宗東北大本山でもあります。本堂には延暦寺から分灯された不滅の法灯があるそうです。
広い境内ですので結構時間がかかりました。
月見坂を上って行くと、西行の歌碑がありました。
「ききもせず束稲やまのさくら花 よし野のほかにかかるべしとは」(ここから見える束稲山の桜は奈良の吉野の桜以外にこんなすごいものは聞いたことがない)という情景を詠んでいます。
西行は、鳥羽院護衛の北面の武士でしたが、眉唾ですが、鳥羽院の中宮への恋心が忘れられず出家したと言われています。西行は平泉に二回来ています。一回目の訪問は出家後に私淑していた能因法師、藤原実方が訪ねた東国を巡る修行でした。二回目の訪問は平重衡によって焼き討ちに会った東大寺の再建で、いわゆる寄付を募りに行きました。東大寺の勧進進職といえば重源が有名ですが、その後栄西に託されたりとかします。西行も一枚かんでいたということで、違う分野、宗派の人物の交流とかはあまり表に出てきませんが、このあたりも研究すればおもしろいかもしれません。
良源の角大師の護符を見つけました。こんなところでと以外に思いましたが、天台宗なので当然かもしれません。
やっと、金色堂まで来ました。ここは写真一切禁止です。コンクリート製の覆い堂の中に金色堂がある二重構造です。須弥壇には阿弥陀如来、勢至菩薩、観音菩薩、地蔵菩薩、四天王があります。ここは藤原四代の遺体(ミイラ)墓所でもあります。同じような須弥壇が3つあり、それぞれ納棺されていて、四代目は首級のみです。
考えたら少し気持ち悪い?
西方極楽浄土への往生を願い棺が納められたのでしょう。
金色堂は宇治白川の金色院を模して建立されたと言われていますが、覆堂の存在は知りませんでした。たしかにこんな覆いがないと残るわけないです。それと、奥州藤原氏が滅亡してからの時代時代の人々による補修の賜物です。先人の苦労がよくわかります。
入ると、丈六の阿弥陀1体、薬師2体の坐像が安置されていて圧倒されます。
(2014年5月26日)