京滋探訪

2013年にブログを開設しました。京都の各地に行って見聞きしたものや感じたことを書いています。

本野精吾

建築家本野精吾の建築物を探訪しました。

京都市考古資料館
この建物は本野精吾が設計し、竣工100年を記念してここで特別展示が行われているのを見学したのが今回の探訪のきっかけです。
説明員の方から以下、お話を伺いました。
本野精吾は京都高等工芸学校(現・京都工繊大)の教授でした。元々は西陣織物館として設計されたものが今は資料館になっています。
本野精吾はモダニズム建築の先駆者の一人として知られ、現存しているものは多くなく、以下の4つぐらいだそうです。

京都市考古資料館
本野自邸
栗原邸
京都工繊大3号館

後述しますが、この資料館はマッチ箱のような建物で、すっきりしすぎているように思っていましたが、このシンプルさがモダニズムだそうです。
考古資料館と同じ年に建てられた三条通りにある辰野金吾が設計した辰野式と言われる京都府京都文化博物館(旧・日銀京都支店部分)は意匠がまったく違っています。JR東京駅に代表される辰野式建築部は重厚な印象でいかにも、明治の建築物という印象を与えますが、本野式は対極にあるようです。また現在のビル建物は本野式がルーツだそうです。



②本野精吾自邸
資料館の方の説明ではこの自邸は全国でもモダニズム建築のベストテンに入るような貴重な建物だそうです。
立命館大学衣笠キャンパスの東側にあるのを見たことがあるので考古資料館を出てから自邸に行ってみました。
自邸の外壁はコンクリートの打ちっぱなしで、今でこそ時々そのような外壁を見ますが、明治大正の時代にはどぎもを抜いたと思います。
自邸は子孫の方が住まわれていて、行った時に映画鑑賞会をされていたようで玄関に「ご自由にお入りください」と書かれていましたが、さすがに入る勇気が沸かなかったです。

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(2015年5月17日)

③栗原邸
考古資料館に行った時に本野設計の栗原邸一般公開のチラシを見ました。
公開は5月下旬とのことで行ってみることにしました。
場所は自宅の山科区と同じ区ですが、地下鉄東西線御陵駅から北へ琵琶湖疏水のあたりと少し自宅から距離がありますが、この日は嫁と行きました。
ここは工繊大の学生のフィールドワークの1巻として建物の修理が施されています。たくさんの見学者がおられました。見学料も安くないですが、若い方も多く、学生さんでしょうか、熱心なのに関心します。
1Fの居間で工繊大の先生の説明がありましたので以下に要点を示します。

(1)本野精吾について(考古資料館の頁と重複あり)
  武田五一が工繊大に本野を呼んだ。武田五一引退後に本野は武田のあとがま 
  となる。
  モダニズムの先駆け。
  様式建築から機能合理主義建築に移行する
  様式建築 重厚 ごてごてしている 辰野式
  機能合理主義建築  すっきり シンプル

  外壁は中村鎮(なかむらまもる)式鎮(ちん)ブロックと呼ばれる関東大震災でも  
  倒壊しなかったL字形ブロックを採用。
  東京駅と同じ時に建てられた京都で最先端の建物。
(2)栗原邸
  元は鶴巻工繊大学長の自邸だった。後に、栗原氏が買い取る。
  栗原氏は広告業の萬年堂社長(後に廃業)
  占領下の京都で栗原邸が接収される。
  当時、京都では大きな家は接収された。栗原邸もそのひとつ。
  工繊大で修理が施されている。雨漏り、外壁洗浄など。


  当日は子息の栗原氏が挨拶された。4歳の時に接収され、京都御所のあたりに  
  引っ越された。
  終戦後に自宅を接収されるとは、想像できないですが、大変な時代だったと思い   
  ます。平和が一番です。
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たくさんの見学者がおられました。びっくりです。京都新聞で記事になったからでしょうか。
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家を見学する時はスマホの磁石で方位を確認します。下写真の部屋は玄関の上に当たり南向きの部屋です。その隣は東南角の部屋でこの家で一番の部屋です。主か長男の部屋だったと想像されます。
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本野は家具のデザイナーでもあります。今でもおしゃれなテーブルとして通せます。
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嫁が「この鏡なんか変」と怖いことを言います。
話を聞くと、顔が綺麗に映るとか。私も映してみましたが・・・・イケメン?かなと?
不思議な鏡です。

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バルコニーから山科の街並みが見えます。向こうの山は牛尾山です。山の向こうは大津です。

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お風呂はそんなに大きくなかったです。当時は丸い湯船?
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(2015年5月31日)