京滋探訪

2013年にブログを開設しました。京都の各地に行って見聞きしたものや感じたことを書いています。

松原通り

東大路通りから松原通りを探訪します。
京阪バス五条坂停留所からスタートです。

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東大路通りを上がるのに五条通りを横断します。いつもは五条坂(東大路五条)交差点の横断歩道を歩きますが、近くの陸橋を歩こうと思い行くと陸橋の手すりに擬宝珠が付いていました。いかにも京都らしい陸橋です。


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東大路松原は平安京の京外の葬地・鳥辺野にあたることから、このあたりは六道と呼ばれます。六道は仏教用語で人は6つの行いの様(地獄-天)
を繰り返す(輪廻)と言われています。
このあたりは魔界伝説が伝わっていて、怪異談など聞くと涼しくなるので夏に行くのがよろしいかと思います。

松原通りを西に行くと六道珍皇寺があります。
小野篁が冥土通いをしたという伝説があります。通った井戸も残っています。お盆の六道参りは有名で迎え鐘を突きます。
ちなみに送り鐘は寺町の矢田寺にあります。

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六波羅蜜寺空也が創建したと伝わります。宝物館には康勝(慶派仏師)作の空也像が有名です。正月にはよく皇服茶、弁財天(都七福神)まいりに行きます。

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このあたりは轆轤町と言いますが、江戸時代には髑髏町という町名でした。道端に人の死体がころがっていたことが由来ですが、ドクロではあまりに気の毒なのでロクロに変えられたそうです。
大学の講演会でのお話ですが、大津坂本の聖衆来迎寺鎌倉時代の国宝・六道絵が伝わっています。
その六道絵は着色されたショッキングな絵柄です。美女の死体が放置され、黒色化しうじがわき、白骨化しやがて影も形もなくなる。あるいは人の死体が犬やカラスに喰われる。
これは想像で描いたのか、あるいは放置された死体を見て描いたのか。
京都の公家は日常生活で不浄なものを極端に忌み嫌ったそうです。その最たるものが邸宅内に死体が転がっていることだそうです。古文書に御所に人の腕が落ちていて加持祈祷で清めたということが載っていて、道端に転がっている人の死体(一部)を犬が運んできてもおかしくない。
道端に髑髏が転がっていたのは事実だろうということです。

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六波羅蜜寺の向かい側に幽霊子育て飴で有名なみなとやがあります。
下に由来がありますが、幽霊になった母親が墓地にいる子どもために飴を買いに来るという伝説です。
ちなみに、落語の怪談で幽霊子育て飴の一席があります。もとの伝説では墓地とだけありますが、落語では高台寺の墓地になっています。高台寺だけに「こをだいじ」にというおちになっています。

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麦芽糖の上品な味です。桂飴に似ています。

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松原堺町通りに鉄輪(かなわ)の井戸が残っています。能演目「鉄輪」は史実に基づいたものなのでしょうか、自分を捨てて後妻をめとった妻が貴舩神社で丑の刻参りをして夫を苦しめます。安倍晴明に占ってもらい妻を調伏するというものです。妻の女性が鉄輪の井戸のあたりで息絶えたということです。
井戸は路地の奥の突き当たりにあります。井戸の横は民家の玄関ですが
こんなところに住むのもおつなものだと思います。

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松原通りの魔界伝説があるのは烏丸通りまでだと思います。

烏丸松原のあたりに俊成社の祠があります。
俊成とは和歌宗家の藤原俊成ですが、邸宅がこのあたりにあったそうです。

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俊成は後鳥羽上皇の勅命により、和歌三神を勧請し邸宅内に祀りました。烏丸通りを渡ったところにある新玉津嶋神社は三神の一つで俊成の邸宅内でした。
とはいえ千年前の平安時代末期~鎌倉時代のことなので、幾度の焼亡がありました。もともと三神は新玉津神社の敷地内にありましたが、今は衣通郎姫(玉津嶋)のみ祀られています。他の二神(住吉神、人丸神)は正親町天皇により住吉神社(摂社人丸社)として堀川通りの方に再建されています。和歌の聖地でしょうか。

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(2015年7月19日)