千本通
千本通りを鷹峯から納所までのべ三日かけて歩きました。
鷹峯は実質、鷹峯街道ですので、千本通りではないかもしれません。一般的には佛教大学のある、北山仏大前が千本通りの起点となります。
千本北大路交差点の東北角に後冷泉天皇火葬塚、西南に近衛天皇火葬塚があります。
このあたりは蓮台野という古来から葬送の地です。
千本中立売に西陣京極の繁華街があります。西陣織の労働者で賑わったそうです。中立売西入ルは五番町という遊郭でした。水上勉の小説『五番町の夕霧楼』の舞台です。
いまでは遊郭の面影はないですが、しいていえば千本日活映画館ぐらいでしょうか。
平安京内の平安宮は、南北は一条通と二条通、東西は大宮通と御前通に囲まれた土地で大内裏とか内野とか呼ばれました。
千本出水の西入る、だるま寺・福勝寺の向かいに宴松原の石碑があります。 宴松原とは大内裏にあった広場ですが、何の目的で作られたものかはっきりしないそうです。後七日御修法が行われるようになった真言院が建てられたようですが。
壬生寺は千本綾小路にあります。壬生寺は三井寺の快賢が建立しました。鎌倉時代に火災で被害にあったのを円覚上人が再興しました。壬生念仏狂言は円覚上人が始めました。現在の本尊・地蔵菩薩は唐招提寺から迎えたと言われています。
壬生寺塔頭の中院は、洛陽三十三観音霊場二十八番札所で、本尊は十一面観音菩薩です。
JR嵯峨野線が千本通の横を走っているところが旧花街の島原です。
揚屋の角屋、置屋の輪違屋が残されています。角屋は平安京の外国使節団の宿泊施設である東鴻臚館の跡地に建てられています。
平安京の最南端の東西の道は九条通ですが、千本九条に矢取地蔵があります。
空海と守敏が雨乞の修法を競い、空海が勝利したことから、逆恨みした守敏が空海に向けて射った矢を、地蔵が盾になって防いだといういわれがあります。
平安京の朱雀大路南端より南の千本通は、鳥羽作道(鳥羽街道)相当します。下の写真にあるように、鳥羽作道の入口は九条旧千本になります。五条通から久世橋通までは旧と新の千本通が隣どおしで通っています。もともとあった千本通りは旧千本通りなります。
千本久世橋を下がると、歌学者・松永貞徳、子で儒学者・尺五の菩提寺・実相寺があります。説明版によると、貞徳の兄が実相寺の住持であった関係から、貞徳没後は墓が置かれ多くの参拝を受けたとのことです。
恋塚浄禅寺は浄土宗西山禅林寺派の寺院です。説明版によると北面の武士・遠藤盛遠は人妻の袈裟御前に横恋慕し、主人を殺すところ誤って袈裟御前を殺してしまうという悲恋の物語が伝わります。盛遠は出家して文覚となり、袈裟御前の菩提を弔うため当寺を建立したとのことです。
また、恋塚浄禅寺は、六地蔵詣りの一つの鳥羽地蔵を有する寺院でもあります。
この文覚と袈裟御前の話は、有名な説話ですが、今で言ったらストーカー殺人ですが、真実とも思えません。
文覚といえば、神護寺を再興しましたが、その件で後白河天皇に強訴したことから配流されたりとか、乱暴なところがあったようで、そういった人物像が元になって、このような説話が生み出されたのではないかと思われます。
さらに後に出てくる、恋塚寺にも同じ説話が伝わっていて、二つの恋塚が存在することでさらに謎が深まります。
名神高速道路を超えたところに、鴨川に架かる小枝橋があります。小枝橋は鳥羽伏見の戦いの勃発地であり、小枝橋の東岸に鳥羽伏見戦跡跡の石碑があります。城南宮に陣取った薩摩藩の大砲砲撃が合図となり戦端が開かれました。
こちらが、もう一つの恋塚です。
西高瀬川が鴨川に流れ込むところから、千本通が鴨川すぐの横を通ります。そこの河川敷に鳥羽の大石が安置されています。もとは川に沈んでいたものです。寛文二年の地震により被災した二条城の修理のために、船に載せ、河を遡りこの地にまで運ばれてきたものが何らかの事情により川底に沈んだものと考えられています。
千本通よりも一号線に近いところですが、鳥羽伏見の戦いで亡くなった兵士の墓が悲願寺にあります。放置された遺体を、下鳥羽の住民が見るに見かねて供養したそうです。初めて見ましたが、寺と付いていますが本堂がなく、普通の墓地です。説明版によると、鎌倉時代の地蔵菩薩が、徳川綱吉の時代に修復されたことで、格式のある墓地として認知され「寺」の称号を受けたとあります。
法伝寺は鴨川沿いにありますが、ここも鳥羽伏見の戦いで犠牲になった兵士の菩提を弔っています。
さきほどの鳥羽の大石に似たものが羽束師橋の下流にあります。同じく二条城の修理の目的で持ってこられた大石ではないかとのことです。草津みなと残念石と言います。
納所の妙教寺に着きました。淀君が一時期住んでいた淀古城跡に建っています。ここにも伏見鳥羽の戦いの戦没者が祀られています。
千本通納所の交差点あたりに、唐人雁木旧跡の石碑があります。大阪湾から船で淀川、桂川を上ってきた朝鮮通信使の、上陸地へ続く階段(雁木)があったところです。
(2019年10月27日、11月2日、9日)