京都キリシタンゆかりの土地
以下は歴史資料館の説明文です。
江戸幕府のキリシタン弾圧は,慶長17(1612)年に始まり,翌年には京都にも波及し,大坂冬の陣(1614)が起こるまで続いた。二回目の弾圧は,元和年間(1615~23)に始まり,元和5(1619)年秀忠(1579~1632)上洛に際し,ますます厳しくなった。秀忠は伏見でキリシタン投獄者のことを知り,老若男女の区別なく火あぶりの刑を命じ,52人が大八車に積み込まれ,六条河原で悲惨な最期を遂げた。これ以後京都ではキリシタンが歴史の表舞台に登場することはなかった。この石標はキリシタン殉教の跡である六条河原を示すものである。
松原通りは平安京の南端で当時の五条通りです。今の五条大橋は秀吉の時代に架けられたもので、牛若丸と弁慶が五条大橋で出会ったという伝承から橋に二人の像がありますが、本来なら松原橋に像があるべきです。牛若丸と弁慶が五条大橋で出会ったということ自体が事実かどうかわかりませんが。
説明板によると、因幡国司・橘行平が、任を終えて帰京の途中、夢のお告げに従って因幡賀留津の海中から引き揚げ、安置しておいた薬師如来像が、行平の後を追って京都に飛来したといわれ、行平は自宅を改造してこれを祀ったと伝えられている。この霊験談は広く親しまれ、歴代天皇をはじめ一般庶民の深い信仰を受け、高倉天皇により「平等寺」と命名された。
とりあえず烏丸通りに出たので四条通りを横断し錦小路まで上がります。西入るに木下順庵の邸宅跡碑があります。この人は松永尺五に学んだ江戸時代の儒学者です。新井白石、雨森芳洲は弟子です。また、加賀藩に仕えたことから、加賀前田家ゆかりの蓮華寺(上高野)の作庭に協力しています。
ようやく、蛸薬師まで来ました。西入るで室町通と新町通の間に南蛮寺石碑が建っています。南蛮寺とは教会のことで、信長の信任を受け、キリシタン大名の高山右近らの協力で1576年に建立しました。「洛中洛外図」にも3階建ての建物が描かれています。その後、秀吉は一転してキリシタンを弾圧をしたのですぐに廃絶になったようです。発掘された礎石や石製硯が同志社に移設されているそうなので、機会があれば見学したいと思います。
次は四条堀川の妙満寺跡です。
26聖人の足跡を広く伝えるためフランシスコの家があり、改築中と聞いていましたが残念ながら別の建物になっているようです。
以下は歴史資料館の説明文です。
ここから西大路丸太町の西ノ京ダイウス町までしばらく歩きます。千本通を丸太町まで上がり丸太町を西進します。ダイウス町はキリシタンが多く住んでいたのでしょうか。京都には数か所ダイウス町がありますが、ここは地名は残っていません。おそらくこのあたりと思いますが違っているかもしれません。
円町にほど近い馬代通にパブテスト教会があります。(パブテスト病院は北白川の瓜生山のふもと)実はここにキリシタンン関連の遺物が残っているとのことです。うっかりしていたのが訪問したのがクリスマスの週でした。集会をされているようで見学出来ませんでした。いつか機会があれば見せていただけたらと思います。
(2013年12月22日)