花園
下の説明板にあるように、ここは清原夏野の山荘を改修し、双丘寺としたことに始まります。その後、いろいろ変遷があり、待賢門院璋子が再建しますが、最終的には融通念仏狂言の円覚が律宗に改宗し現在に至っています。
本尊の重文・阿弥陀如来像は院覚の手によります。
また、庭園は青女の滝(下写真)で知られ特別名勝庭園に指定されています。
また、蓮の寺としても知られ、6-7月には池一面に蓮の花がきれいです。
法金剛院の裏山に待賢門院陵や上西門院陵がありますが、ここは思ったより広大な土地で陵墓の参詣は別の機会とします。
(上西門院は鳥羽天皇皇女で母は待賢門院です。)
説明板によると、このあたり一帯は木辻(きつじ)と呼ばれ、木辻の発音が吉次(きちじ)に通じることから金売吉次の別邸がこの地にあり、牛若丸が身を寄せていました。吉次は、奥州藤原氏のもとに逃れることになった牛若丸に、吉次の守り本尊の地蔵菩薩に、長途の安全、宿願成就を祈念するように勧めました。願王寺の本尊はその時の地蔵菩薩と伝わります。
ちなみに、「金売吉次」についてウイキペディアで調べてみましたが以下のような結果でした。
◆実際に「吉次」なる人物が実在したかどうかは、史料的に吉次の存在を裏付ける事が不可能であるため、彼の存在は伝説の域を出ず、まったくもって不明である。
金を産出し、それを京で取引していたのは明らかになっている。吉次なる人物のように金を商っている奥州からやって来た商人がいた事は想像に難くない。
したがって現在では、こうした商人の群像の集合体が「金売吉次」なる人物像として成り立ったのではないかと考えられる事が多い。
来た道を戻り、妙心寺南総門に向かいます。
ここは一大禅寺ですが、特別期間以外は拝観出来るところは限られています。
禅宗だけではないですが、仏教の各宗派は法脈を重要視します。法脈とは宗派の正当な継承者を任命することで、宗派の解釈が時代時代でぶれないようにします。臨済宗妙心寺派の場合は「応燈関(おうとうかん)」の法脈と言われています。
関山慧玄という人は大変厳格な方だったようです。頂相が伝わりますが、存命中は決して頂相を許可されず、没後何十年もたってからの作品だそうです。この手の話はよくありますし、伝承とは違う人物が描かれていることがよくあるようですが、誰もわかりません。
法堂と明智風呂の拝観ではお寺の方に説明していただけます。
また、国宝の黄鐘調鐘も陳列されています。今は使用されていないようですが、録音された音色を聴きましたが、すみません、いいのか悪いのかよくわかりません。
お風呂といっても浴槽があるわけではなく、どちらかというとサウナです。
ところで、どうしてお風呂が供養になるのかという疑問が湧きますが、因果応報の思想だそうです。お風呂を無料で開放することがお布施となり、それが善因として亡くなった方の供養となるそうです。